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母から受けた愛情

  • TOMOKA
  • 2020年10月23日
  • 読了時間: 3分

前回からの続き♪


今、ふと。私は一番書かなきゃいけない事をずっとブログに書いてなかった。 そう、私が今こうやって自由に自分として自然に生きていけている理由みたいなもの。


ずっと外からの影響やら外の環境へ感じてきたことばかり書いてきたけれど、私は母からの愛情をたっぷり受けて育ったから今の私がある。


離れていてもずっと安心感があった。

子供の頃、私を否定すること多分なかったと思う。


高校生や大人になっても基本的にいつも自由にいさせてくれて、自立した一人の人間としていい意味で自由にさせてくれていたと思う。


その分、一般常識とか、世間のこととか全く知らないことだらけで、高校生の時にアルバイトをしだしてから色々知っていくことになる。外の世界を知りだした時。


もしこれが全く違う親の元で育っていたら私も全く違う人になっていただろうし、今みたいに何でも怖がらずチャレンジできる人にはなっていないと思う。


一時は親を恨んだような時もあったけど、今は感謝しかない。

父と小さなときに別れてくれてありがとう。って。




これやりなさい、こうしなさい。も一切言われた覚えがない。

高校のときなんて母が副業で働いていた飲食店にアルバイトしたら?と母から誘われて一緒に働きだしたし(高1、フロアは違ったので本当に一緒ではない)、当時はまっていた宝塚にも初日とか千秋楽とかどうしても行きたい日は学校を休ませてくれた。私はうきうきして皆と逆の電車に乗って通ったこともよくあった。


困ったことは多分いっぱいあったのだと思う。

普通の子たちがちゃんと用意しているようなことを私は自分でやるから比べられたり、でもそのおかげで自分で何でもできるようになった。


高校の時は自分でお弁当を作って行っていた。(母が作ることもあったはず)



今突然思い出した懐かしいこと


母の仕事は普通の会社勤めの仕事でなかったので(夜のお仕事ではない)、めちゃくちゃ忙しくて、家にいてもお客さんと電話ばかりしていた。仕事の日は遅い。


そうそう、40年前くらいの母子家庭には考えられない概念かもしれないけど、うちにはお手伝いさんがいたのだ。私には3才下の弟がいるのだけど、お互いが小学生の頃までだったかな。


決して裕福だからお願いしているわけではなくて。母は私たちのためにお手伝いさんを頼んでいてくれたのだろう。


学校のある平日には毎日ではなかったかもしれないけれど、夕飯を作りに来てくれる人がいた。

出張のときもあったから、泊まり専用のお手伝いさんもいて、その時は一緒にお風呂も入って一緒に寝てくれた。


お手伝いさんは数人入れ替わったけど全員のことを覚えている。

みんな優しくていい人だった。変った人もいたけれど、それはそれで私たちには何の問題もなかった。回りに大人がいるのは小さなときから自然なことだったのだ。(この話はまた別の機会に)



私はご飯を食べていたのか?(笑)



小中高の約10年間は神戸市内のある団地に住んでいたのだけど、その家でいわゆる『ご飯』を食べてる最中の記憶が全くない!これは数年前に発覚して自分でも驚いた。


母は時々外食に連れていってくれるのだけど、それが嬉しくてそのことはめちゃくちゃ覚えている。どの店も覚えている。


ってことは家での食事は楽しくなく、ただ食べるという行為だけだったのかな。

本当に覚えていなくてびっくりする。(今中学か高校のテストの日の朝ごはん1日だけ思い出した)


お手伝いさんが作ってくれた夕食をどうやって毎日食べていたのだろう? 弟と二人で食べていたのかな。全く覚えてない。

母と食べたことももちろんあったはず。でも記憶がない。


不思議だ!きっと魂はそこにいなくて体だけ食べていたのかな(笑)




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